さくら幻想


これは以前書いたオリジナルの話です。書き直しながら途中までアップしています。そのうち続きは近々アップする予定です。



 桜の樹が、闇に浮かび上がる。薄紅の花が満開になっている。はなびらが宙に舞う。ひとつ。またひとつ。いつのまにか、咲き誇った桜はどんどん散り始めていた。雨のように降りしぶくはなびらに、視界が霞む。
 その靄の向こうに人影が見える。大樹の下に佇むその人は、学生服を着ていた。微かに俯いている彼の表情は分からない。けれど彼の視線は地に向けられている。そこにはもう一つの人影があった。
 したたり落ちる真っ赤な血。彼の指先から血が雫になって落ち続けていた。手の甲はすっかり血に濡れているのに、それは彼自身のものではないとすぐに分かった。彼のものではない血……地面に倒れ伏す人の背中から真っ赤な血があふれ、血だまりができている。
 彼がどんな顔をしているのかは分からない。けれど……なぜか、泣いているような気がした。
 沙樹は訳もなくそう確信した。ただ見ているしかできない彼女には、そんな彼の姿は、胸が押し潰されそうなほど痛かった。息ができないくらい哀しくて、沙樹は知らずに涙を流していた。泣くしか、できなかった。


「……沙樹!」
 びくんと身体が震え、彼女は目を開けた。陽の光が降り注ぐ窓際。図書館の自習室で、沙樹は眩しい外を見上げた。
「沙樹、どうしたの? ……もしかしてまた……あの夢を……?」
 沙樹は振り返った。そこには髪を肩を舐めるくらいに切った女の子が立ち尽くしている。長身としっかりした体つきの彼女には不釣合いなほど哀しげな瞳は、沙樹だけを見つめている。
「由紀」
 沙樹は笑ってみせた。
「大丈夫。……ちょっとうたた寝してただけ。ごめんね、心配させて」
 由紀はそれでも不安そうな瞳をやめない。
「本当に……?」
「うん」
 笑顔で沙樹は由紀を見つめた。由紀の方を見て、笑う。穏やかに、ひたすら内なる感情を押し隠すために。
「ねえ、由紀も座りなよ。立ったままじゃなんだし」
 ねっ。そう誘って由紀に手を差し伸べる。ためらいなくつかんで、沙樹は引っ張った。
「……ええ」
 また、以前のように屈託なく微笑んでくれるようになって数か月。それでも、こんなに不安になる笑顔というものを由紀は他に知らない。
 由紀は沙樹の笑顔を見ているとかえって沙樹の傷の深さを思い知る。どんな思いを抱えて笑っているのだろうと考えると、ただそれだけで胸に痛みが走る。
 どんなに愛していても一緒にはいられない相手。どんなに愛されていても幸せにはなれない相手。互いに相手を誰よりも大切だと思うからこそ、叶わない恋なんて、由紀は知らない。
 それでも、沙樹は微笑む。痛みも哀しみも抱えたままやわらぐことも薄れることもない日々を過ごしながら、それでも穏やかに沙樹は笑みを浮かべる。私は何も感じていない、何も何者も知らない、見なかった、起きなかったと身体中で叫ぶように。
「……もう、帰らない? 沙樹。……私もバスケ終わったし」
「あ、もう……そんな時間なんだ」
 眩しい、と感じたのは、長く眠りすぎたせいらしい。もう日は傾いて、白テーブルの並ぶ自習室を淡いオレンジ色に染め上げていた。
「うん。……帰ろ、由紀」
 立ち上がった沙樹はうれしそうに笑った。
「あ」
 由紀は心の奥が熱くなるのを感じた。沙樹の今の笑顔は本物だった。由紀と一緒に帰れるのが心からうれしい……目の輝きも弾む声も、やわらかに伏せられる睫の震えさえ、なんの偽りもないものだった。
「……沙樹」
 由紀の手が沙樹に差し出される。沙樹はその手を握り締め、腕を絡ませるように由紀に身体を押しつけながらもたれさせた。
「こう…してて、いい?」
「うん」
 背の高い由紀に頭をこつんとぶつける。ちょうど肩口に沙樹のこめかみが触れる。そのまま目を閉じると、由紀の体温がブレザーを通して伝わってくる。部活を終えたばかりの由紀の熱い身体には、鼓動が聞こえてきそうなくらい熱い血が確かに流れている。
 ただそれだけで沙樹は泣きそうになった。だから沙樹はくちびるをかみしめて由紀の手をさらに握り締めた。
「沙樹?」
「……いこ」
 沙樹は鞄を持っていたほうの手で由紀の身体を前から抱き締めた。
「うん」
 由紀はそんな沙樹の背中をそっと撫でて、抱きかかえるように歩き始めた。
 沙樹と仲がいい由紀たちをよく知っている司書の先生は、そんなふたりを笑って見送っていた。


「……沙樹、もう大丈夫。誰もいないわ」
 図書館を出て、由紀はひとけのない教室のひとつに入り、そう呟いた。沙樹は由紀の声に顔を上げた。確かに人影は見えない。息をついた沙樹を見つめる由紀の哀しげな瞳に気づいて、沙樹は息を呑んだ。
「由紀、……いちゃいちゃしたの……いやだった?」
 由紀は首を振った。
「かまわないけど。……でも、本当の理由はそうじゃないでしょ」
「……そんな……こと、……っ」
 由紀の視線は真っ直ぐ沙樹に注がれている。
「誰もいないし、取り繕うこともない。私、あなたに隠し事されるのは好きじゃないわ。……私は田村さんと違うよ。……あなたの話信じてる。……あなたを分かりたいと思ってる。だから……そんな顔をして笑わなくていいよ。涙をこらえなくても、いいんだよ」
 沙樹のくちびるが震えた。
「で……も」
 由紀は小さく首を振った。
「そばにいさせて。……代わりになんてならないだろうけど……苦しい時に苦しいって言える相手くらいには、なれないかな……。私の前では無理しなくていいから」
 沙樹の目に涙がにじみあふれ、こぼれ落ちた。由紀は沙樹の肩を抱き寄せた。
「ごめ……なさ……っ」
「大丈夫。……大丈夫だから……」
 そばにいて、抑えがたい激情を涙で洗い流さなければいられない状況の沙樹を、少しでも支えていてやりたい……。それはいつも沙樹に関することでは無力感を覚える由紀にとって、ほんのささやかな望みだった。
 泣きじゃくる沙樹の心に入り込み、沙樹が感じ続けている痛みの元を取り除くことができれば、といつも思う。抱き締めても、涙を拭っても、本当の意味では沙樹を抱き締められたことなど、一度もない。どんなにきつい抱擁も、どんなに真剣に沙樹を想っても、それは由紀の中に留まる想いであって、沙樹を慰められることはない。
 どんなに愛していると囁いても、沙樹を癒すことはできない。
 痛みというものが目に見えて、手につかめるものなら、とっくに取り除いてしまっているだろうに。現実はもどかしいほど虚しい。
「こんなに……無力なんて……」
 不幸になると分かっている恋でも、幸せな結末など望むべくもない想いでも、沙樹を思い止まらせることなどできはしない。他の人のことはしらない。けれど、彼女はそうじゃない。幸せになんてなれないから、好きになるのをやめることなんて、できない。目を逸らすなんてできない。……忘れるなんて……。
「あなたを守りたい。そんなにまで苦しむあなたを、私は……」
 沙樹は涙を拭いながら由紀を見上げた。
「由紀……いつもごめんなさい」
「な、なに? なにが」
 沙樹は涙に濡れる瞳でゆっくり微笑んだ。
「心配かけちゃって、ごめんなさい」
「……沙樹」
「困らせて……。私が勝手に苦しんでるだけなのに、いつもこうしてつきあってくれて。……家じゃ、こんな風には泣けないし、……美代は……」
「田村のことなんか、考えないでいいよ!」
 由紀は怒ったようにさえぎった。
 美代は沙樹の打ち明けた話を信じようとしなかった。沙樹は少し寂しそうに『うん、そうだよ……ね。普通じゃ……ないよね、こんなの』と呟き、俯いてしまった。そのまますべてを心の奥底に封印してしまいそうに思えて、由紀は焦ったのを覚えている。
「私は信じるって言ったじゃない! あんな奴のこと、気にすることない」
「でも、……でも普通はああ思うよ。間違ってないよ。……おかしいのは……私のほうなんだよ、きっと」
「おかしいかどうかなんて、そんなの、そんなのそんな風に決めるなんて、変だよ! 全然沙樹は普通だよ! 気にすることないから、ねっ!」
「由紀……」
 沙樹は困ったように笑った。涙がにじんできそうな笑みだった。
「ありがとうね、本当に。……ごめんなさい……私、本当に幸せだわ」
「沙樹……?」
「だって、本当ならひとりぼっちだったはずなのに。冷たく突き放されてたかもしれないのに、……由紀はちゃんと……受け止めてくれてるんだもの。本当なら、『そんなの嘘だ、頭おかしいんじゃないの』って言われてても全然不思議じゃないこと、話したのに……だから、私、今の私は、あなたがそばにいてくれるだけで、本当にすごく救われてるんだよ」
「……沙樹……」
 こんな寂しそうに笑う友人を見捨てることなどできやしない、と由紀は思った。どんなに突飛な打ち明け話を聞かされても、それを『非現実的』と一蹴することなどできなかった。そうすることで彼女がどんなに傷つくか、由紀は目の前で見せつけられていた。たったひとりで、誰にも相談できないまま、苦しんで苦しんで……苦しみ抜いて傷ついていくのを黙って見ているわけにはいかなかった。
 その話を受け入れて、彼女のことを真剣に考えてあげても、それで何が変わるというわけでもない。それでも、それだけで沙樹の心がひとりで思い悩むよりも遙かに軽くなるのは分かっていた。
 目の前にできることがあると分かっているなら、それをせずにはいられなかった。
「沙樹、気にしなくていいんだよ、本当に。私は信じてる。何があっても。……だから……」
 沙樹の細い肩をそっと撫でる。
「だから、つらかったらひとりで抱え込まないで。私でよければ、何でも相談に乗るから。何もできないかもしれないけど……そんな私でよければ、なんだってしてあげるから」
「……うん」
 沙樹はそう言って涙に濡れた瞳を細めて微笑んだ。
 この微笑みを守るためなら、なんだってする……由紀は微笑み返しながら決意を新たにしていた。


 信じられない、と確かに言った。でもそれは沙樹を突き放したわけじゃない。
 それでも、沙樹が哀しそうに「そうよね、美代の言うこと、当たり前だよね……」と言ったのを聞いた時、言ってはいけないことを口にしてしまった気がした。
 おかしいと思ったからおかしいと言っただけ。でも、沙樹が笑ってくれなくなったのはそれからだった。もう一度沙樹の笑顔が見たい……それは自分勝手な願いなのだろうか。
 美代にとってはそれは矛盾なく存在する願いだった。そしてそのためなら、どんな恥知らずにでもなるつもりだった。
「ちょっといい?」
 鈴原は瞬きして、目の前の田村を見つめた。
「なんだよ」
「話があるの。お昼、もう食べたでしょ?」
 強引な田村に抵抗を覚えながらも、周囲の冷やかしの視線よりも鈴原はそっちの方が気になった。
 田村は鈴原を屋上まで連れていった。
「一体、何の話……」
「沙樹のことなんだけど」
「沙樹? あ、早川のこと?」
 田村は頷いてじっと鈴原を見つめる。
「彼女のこと……どう思ってる?」
「どう……って」
 鈴原が早川のことに気づいたのは昨年の夏……1年の1学期ももう終わり頃の7月のことだった。
 行き帰りの電車はいつも満員で、座れることなんてなかった。流れていく風景をぼんやり見ている時、ふと鈴原は視線を感じた。
 初めは控え目なもので気づかなかったのだが、そのうちそれは熱をはらむものになってきて、時々振り返ったりもしていた。そんな時、決まってある人がそこにいて、恥ずかしそうに俯いていた。
 それが同じクラスの早川だと気づいたのは2学期に入ってからだった。
 早川は頭が良くて成績も結構いいほうで、バスケばっかりやっててあまり勉強には身が入らなかった鈴原にとっては、遠い存在だった。
 彼女はどちらかというとおとなしい生徒で、いつも田村と川部と一緒にいて、ほとんど話もした覚えもなかった。
「1年から持ち上がりで、クラスの顔ぶれも変わらないし……おとなしい子だよな」
「それだけ?」
 鈴原は瞬きした。
「それだけって? 何が言いたいんだよ」
 田村は睨むような顔をしたまま言った。
「可愛いとか、いいなーとかっ!」
「……そりゃ、その……可愛いとは思うけど」
 クラスの女子の中でも、そこそこじゃないかなとは思うけど、それ以上に鈴原は早川を避けようというところがあった。
「でもさ、ほら……なんか1か月くらい失踪してたんだろ? なんかよく知らないけど。家出とか」
「家出なんかじゃないわよ」
 むっとして田村は怒った顔をした。
 1年3学期も終わりの3月頃。校門を出てすぐのところにある長い長い下り坂の両側に、桜並木がある。その坂の途中で、早川はいなくなった。
「突然、いなくなったのよ。家出なんかじゃないわ」
「わ、わかったよ」
 それまでの早川の評判と言えば、男子の間では「彼女にできたらいーのにな」くらいにはもてはやされていた。だから、早川のそばにいつもいる田村と川部が、おとなしめの早川をいつも守っているようなところがあったから、男子たちにすれば彼女たちは邪魔で仕方なかった。だから、あのふたりさえどこかに行ってくれれば、その間になんとか告白してみて……なんて馬鹿話をすることもあった。
 だが、それもあの3月の失踪事件までの話だ。
 いつもの帰り道、早川は田村と川部と3人であの下り坂を歩いていた。早川はその日あることがあって少し浮かれていて、楽しそうにふたりより先を歩いていた。そのふたりの目の前で、早川の姿がかき消すように見えなくなったのだ。
 一瞬、ふたりとも目がおかしくなったのかと思った。目の錯覚じゃないと分かった次に思ったのは、沙樹が崖から落ちたのでは? ということだった。ふたりはあわてて見えなくなったところに駆け寄った。だが、崖下にもどこにも早川の姿は見えなかった。そればかりか、その坂を上ってきていた数人の人間が、田村と川部同様、早川がかき消えたのを目撃していた。
 当然、すぐに警察を呼んで、その場にいた全員が事情聴取を受けたし、現場検証も行なわれた。下り坂をはじめ、周囲の崖から町からなにから、思い当たるところ全てが捜索されたし、ローラー作戦も行なわれたが、何の手がかりも掴めず、早川の姿も発見されなかった。
 そして1か月後。2年の1学期が始まった4月中旬、すっかり葉桜に変わった桜並木の一本の桜だけが狂い咲きし、その木の根元に早川が失神したままうずくまっているのが発見された。
 早川は多少衰弱していたが外傷はなく、失踪した時と同じ服装で、服もまったく汚れはなかった。本人に事情を聞いても、「分からない、何も覚えていない」と不安げに繰り返すばかりでまったく要領を得なかった。
「あの子があんなことになった責任の一端は、あんたにあるんだからね」
「はあっ? 俺、が? なんでだよ!」
 あの3月の直前まで、鈴原は早川の視線をずっと感じていた。その頃には彼女に好かれているのかも、なんて考えるようにもなっていて、それでもなんとなくそれ以上こちらからどうこうという気にもなかなかなれなくて、そのままになっていた。
 だが、彼女が失踪し、発見されてからは、鈴原は彼女の視線を感じなくなった。同じ電車に乗ることも稀になったし、たとえ同じ電車に乗っても、彼女が鈴原をじっと見つめることなどなくなっていた。
「沙樹は鈴原のことが好きで、あの日告白しようと決心してたの」
「!」
「でも、あんなことになって……あの子は、……」
「一体、何があったんだよ」
 言い淀む田村を鈴原は詰め寄った。
「とにかく、もっと早く鈴原が沙樹に告白してくれてたら、あんなことにはならなかったのよ。あなたのせいなんだから!」
「……そんなこと言われても……」
「だから、鈴原はどう思ってるのよ」
「早川のこと?」
 鈴原は目線を落とした。
「そりゃ……好き、だよ。ずっと見られてたのに、この頃そんなこともなくなって……それでなんか、それがすごくさびしいなって思うようになってて……好きだったのかもなーって、最近思うようになってた」
 でも、どこか不安が残る。今の早川にはどこか沈んだところがある。失踪前の早川は、おとなしくて口数が少ないとは言っても、笑うと魅力的で、あの笑顔を見ると彼女をいいなと思う人間が後を立たないのも分かる気がするという感じはしたのだが……。
「じゃあ、沙樹とつきあってよ」
「え」
 戸惑う鈴原を、田村は強引に押し切った。
「最近、沙樹はいつも図書館で川部の部活が終わるの待ってるから、男バスも女バスと同じ位に終わるでしょ? 図書館はその時間にはもうほとんど人がいないから、そこでつきあってくださいって、告白して」
「ちょ、待てよ。おいっ!」
「分かったわね? それじゃ」
「待てって!」
 さっさとひとりで屋上から階下へ下りていってしまった田村を見送り、鈴原はため息をついた。こんな強引な女がそばにいるから、早川がどんなにおとなしくて可愛くても、男子たちが手が出せなかったんだよなー……としみじみ鈴原は思った。


「沙樹」
「あ」
 沙樹は美代が声を掛けてきてくれたのに気づいて、うれしそうに微笑んだ。
「今日、きっといいことがあるよ」
「え? どういうこと、それ」
「いいからいいから」
 立ち上がりかけた沙樹をもう一度座らせ、美代はにこにこして沙樹の手を握った。
「田村、鈴原となに話してたの」
「んーん、なんでもない」
 由紀はじろりと睨んでいる。
「それに何よ! 気軽に沙樹に触んないでよね!」
 由紀が美代の手を叩こうとしたのを見て、あわてて沙樹は美代の手を引っ張った。
「けんかしないで!」
 沙樹が美代の手を上から覆ったので、由紀はもうちょっとで沙樹の手を叩きそうになり、すんでのところで止めた。
「な、なにするの」
「だめよ。仲良くしよ」
 由紀はどうして沙樹が美代をかばうのか分からない。沙樹を傷つけたのは美代なのに……美代が声を掛けてきただけでうれしそうな顔をして、また微笑みかけている沙樹の態度が由紀には苛々する。
「美代をどうしてかばうの」
「いいじゃない。……友だちでしょ」
「そんな奴……」
 友だちじゃない! そう言おうとしたら、沙樹は哀しそうに由紀を見つめた。
「沙樹……」
「だって、……ねえ、お願い、そんな恐い顔しないでよ」
 そう言われると、由紀にはもう何も言えない。
「あのね沙樹……あなた優しすぎ。あなた美代になんて言われたか忘れたんじゃないわよね?」
 沙樹はちらりと周りを見て、由紀の袖を引っ張った。
「由紀」
「……分かったわよ」
 あーもう。そんな感じで、由紀はため息を飲み込んだ。沙樹の打ち明け話はこの3人だけの秘密で、その話を信じなかった美代も、他の誰にも話していない。それは沙樹がもともと誰にも話すつもりがなかったのを由紀と美代が無理矢理聞き出したからだった。
「とにかく……今日、図書館でいいことがあるから」
 美代の話に、沙樹は首を傾げた。


 成績が落ちてきているのは担任から言われ続けていたが、沙樹はそれをどうこうしようという気がなかった。
 以前なら、由紀の部活が終わるのを待ちながら、図書館の自習室で勉強していて、それがずっと好きだった鈴原に帰りの電車で会える……という楽しみの前でもあって、勉強にも熱が入ったのだが、今となってはそれももう遠い過去の話になってしまっている。
 由紀は最近の沙樹の様子を知っているから、別に待たなくてもいいと言ってくれるが、鈴原と同じ電車に乗ることについてはもうどうでもよくなってはいても、由紀と一緒に帰れるというのは沙樹にとって楽しみの一つなのは変わりなく、だからこうして閉館時間まで由紀を待っているのは決してつまらなくはなかった。
「鈴原くん、か……」
 あんなにどきどきしながら毎日同じ電車に乗って、吊り革につかまってぼんやり外を見ている彼を見ているだけで幸せだった日々は、一体どこに行ってしまったのだろう。まだあのときめきを覚えていた頃から2か月もすぎていないのに……沙樹の心は今、まったく別のことでいっぱいになっている。
 鈴原のことが嫌いになったのかと聞かれれば、きっとそんなことはないと答えるだろう。なら、好きなのか、と聞かれたらどうなのだろう。以前ならためらいも迷いもなく頷けただろう問いに、今は口ごもるしかない。
 最初に彼を見たのは由紀の練習を見に行った時だった。同じクラスなのに教室での彼の印象は薄く、初めて彼を見て胸がときめいたのは部活でバスケをしている時だった。彼の名前が鈴原翔だということ、同じクラスだったことも、後で知った。なんてラッキーなんだろうと思ったけれど、どうしても自分から声が掛けられなくて、でも諦められなくて、そのうち沙樹が乗る電車に偶然乗り合わせた彼の姿を見つけ、それからはいつも鈴原の乗る電車の同じ車両に一緒に乗るようになった。時々鈴原が沙樹のほうを振り返ることもあったが、沙樹が鈴原に微笑みかけるなんて芸当ができるはずもなく、恥ずかしくて俯いているしかできなかった。
 由紀は沙樹の気持ちを知っていたから、バスケの練習を見に来ればいいと言ってくれた。でも、鈴原への気持ちが固まってしまった今となると、かえって見に行けなくなってしまって……沙樹はどうすればいいか分からなかった。
「あの……」
 はっとして振り返ると、沙樹は目を見開いた。
「鈴原くん……?」
 小さく頷いて彼はきまずそうに視線を逸らした。
「今、いいかな」
「あ、はい」
 どきどきが去らないあの頃なら、一体どうしただろう。そんな風にさめて考えてしまう自分が切ない気もしたし、哀れな気もした。あの頃ならどんなに幸せだったろうと思うと、哀しくて涙すら出そうだった。
「……早川さん、つきあってください」
 沙樹はまっすぐ鈴原を見つめていた。
「私と……」
 鈴原は頷いた。
「他に……好きな人、いますか」
 沙樹は一瞬哀しそうな顔をした。
「早川さん……?」
「あ」
 沙樹は俯いた。
「……あの、少し……考えさせてもらえますか」
「あ、……あ、そうだね。じゃ、返事待ってるから。……これ、俺の携帯の番号」
 メモをそっと沙樹の前の机に置き、俯いたままの沙樹を心配げに見つめてから、鈴原は踵を返した。


 様子が変だとは、一目見て思った。
 泣きそうな顔をしてることは最近は少なくなっていたのに。
「沙樹、どうしたの?」
 由紀の声にゆるゆると顔を上げた沙樹は、涙を懸命にこらえたようなつらそうな表情で首を振った。
「……とにかく、帰りましょう」
 こく……と頷く沙樹を促して、由紀はふたりで図書館を出た。
 校門を出ると、長い下り坂。いつも沙樹は足早にここを通り過ぎる。けれど、今日は校門を出たあたりで足が止まっていた。じっと坂の途中の桜並木を見つめている。すっかり葉桜の中、あの日……沙樹が発見された時、なぜか一本だけ狂い咲きしていたあの桜の木を。
「どうしたの? ……あそこを通りたくないの?」
「違うの。……そうじゃない……」
 目から涙がこぼれていた。
「行きたいの……もう一度、会いたいの……」
 沙樹は駆け出した。由紀はあわてて沙樹の後を追い、沙樹の腕をつかんだ。
「行かないで!」
 由紀の声に沙樹は振り払おうとするのをやめた。
「……由紀?」
 振り返り、じっと見つめてくる沙樹を、由紀は必死の表情で見つめ返した。
「行かないで。……どこにも行かないで、お願いだから」
「……でも、私の望みはここにはないの」
 由紀は沙樹を背中から抱き締めた。黒い学生鞄が道路に投げ出された。
「それでも、私は沙樹にどこにも行ってほしくない! お願いだから、……私を可哀想だと思うなら、……死にたいなんて考えないで……」
 沙樹は背中に由紀の温もりを感じていた。しばらくして沙樹の手が由紀の腕に触れた。
「死んだりしないわ。私、死にたいわけじゃない。だから……大丈夫だから」
 恐る恐る由紀は顔を上げた。そっと腕を離すと、沙樹は振り返って由紀の手を握った。
「もう一度会いたいだけなの。心配掛けてごめんなさい」
「でも」
「……会えないのは分かってる。けど、会いたい」
 足下に転がった鞄をためらいながら拾い上げた沙樹は、由紀の手を握り締め、ゆっくりと坂を下り始めた。
 校門のすぐそばから桜並木は始まっている。ちょうど半ばのところだった。そこだけ、ガードレールが真新しい。他は少し汚れが目立つのに、ここは真っ白で目が痛い。
 昨年の3月に事故があったと、つい最近由紀たちは知った。由紀たちがこの高校に入学する前の話で、事故は春休み中に起きたものだった。入学試験と合格発表とでしか来る機会のなかった新入生の由紀たちには、誰が亡くなったのか、そしてどんな事故だったのかさえ、知る由もなかった。
 沙樹が失踪するまでは。
 由紀と美代は、目の前で沙樹を失って、どこに行ったのか、生きているのか死んでいるのかすら分からない不安の中、彼女たちなりにこの場所について調べて回った。
 その結果、意外なことが分かった。一見なんの関連もなさそうな事故だったが、場所がぴったり合いすぎていたことが、ふたりをぞっとさせた。
 ガードレールに車が激突し、中にいた少年が死亡。少年の評判はそれまで決して悪くはなかったのだが、その事故が原因で一気に地に落ちたという話だった。
 彼は当時17歳。車内には彼一人しかおらず、運転席に座っていた彼は当然免許など持っておらず、そのうえ司法解剖の結果多量のアルコールが検出された。
 結果、導き出されたのはこんな話だった。深酒した少年が無免許で車を乗り回し、事故を起こして死んだと。
 沙樹はその真新しいガードレールのすぐそばに生えている桜の木の根もとで足を止めた。
「もう、あの人はここにいないのに……」
 沙樹は鞄を落として、桜の木に触れた。そっと頬を寄せ、目を閉じる。
「会えないって分かってる。会えないほうがあの人にとっては幸せなのも分かってる。でも、……それならどうして、こんなに胸が痛むの……?」
 俯き、肩を震わせて泣く沙樹の姿は、由紀には決して入り込めない溝を感じさせる。
「死にたいわけじゃない。そばにいたいだけ。ただ、そばに……」
 血に濡れた手。散り急ぐ桜。
 あの場所から戻ってきた今となっては、あれは幻想だったと言われても、仕方ないものなのかもしれない。
 でも、沙樹にとっては幻想なんかじゃなかった。確かにそこに存在していた、まぎれもない現実だった。
 嘘で固めた現実と、真実だけの幻想と……どちらが本当なのか、もう沙樹には分からない。何もかもが混乱して、どうすべきかすら見えない。
「沙樹……一体、何があったの?」
 由紀の困惑した声に沙樹はようやく顔を上げた。


「鈴原が、つきあって……ほしいって?」
 小さく頷き、沙樹は俯いた。
「それで……どうするの」
「どう……? 分からないわ。どうしたらいいのかなんて、今の私には決められない」
「どうして! つきあっちゃえばいいじゃない」
 沙樹は由紀の言葉がすぐには信じられなくて瞬いた。
「今、……なんて」
「つきあえばいい、って言ったのよ」
 沙樹は視線を揺らした。
「つきあう」
「そうよ」
 虚ろな視線だった。
「つきあうって、何をするの?」
「……沙樹?」
 ぼんやりと呟く沙樹の表情を見ていると、まだ人形のほうが感情豊かだろうと思えた。
「だから……休日に一緒に出かけたり、食事したり、買い物したり。……ほら、一緒に話をしたり、映画を見たり」
「そんなことをして、何になるの?」
 沙樹はぽつりぽつりと呟くけれど、まるで投げられたボールをただ投げ返しているだけのような話し方だった。
「ねえ、そんなことして、楽しいの?」
「沙樹……」
 震えるような声で沙樹は呟く。
「……楽しいのかな、なんて考えてるような私なんかが……鈴原くんとつきあおうなんて、考えちゃいけないんじゃないかな」
 沙樹がバスケの練習を見に行けなくなってしまったのは、単に引っ込み思案なだけではない。鈴原もそうだが、男子バスケ部の練習している体育館には女子がいつも山ほど押しかけていて、沙樹のような女の子など、とても練習風景を見るどころではないからだ。
「鈴原くん、すごく人気あるし、私みたいな子より、もっとずっと鈴原くんのことを好きな子がいっぱいいるはずだし……それなら、私が鈴原くんを取っちゃったりしたら、だめなんじゃないかな」
「沙樹、でもあなたずっと鈴原のことが好きだったんでしょ?」
 こく、と頷く沙樹を、由紀は苛立たしそうに見つめている。
「なら、何も遠慮することないじゃない。好きなら好き、なにも気にすることないわ。それに何より、鈴原のほうから沙樹とつきあいたいって言ってきたんだから、誰にも文句は言わせないわ」
 沙樹の瞳がみるみる涙に潤んできた。
「でも、私きっと、今は鈴原くんが一番に好きというわけじゃないわ。だって、告白されたっていうのに、少しもうれしくないんだもの。もしこれが……昨年だったら、私、きっと舞い上がってうれしくて、何を差し置いてもつきあうって言ってたと思うもの」
「沙樹」
「だから私、だめなんだと思う」
 由紀は沙樹の肩をつかんだ。
「つきあいなさい」
「え?」
「鈴原とつきあうの」
「……でも」
「つきあわなきゃ、だめ。あなた、このままひとりでいたら、もっとだめになる。立ち直れなくなる。きっと鈴原とつきあってるうちに、また前みたいにあいつを好きな気持ちが湧いてくるわよ。今だって、いいなーとは思ってるんでしょ?」
 沙樹は俯いていた。
「あなたが心配なの。私にできるなら、いくらでも協力するけど、でも……」
 私じゃ、沙樹の心の中まで入れないから……。由紀はそう呟いてくちびるをかんだ。
 それが虚しくて、つらくて、見ているだけしかできない自分が……沙樹を癒してあげられない自分の無力さが口惜しくてならない。
「つきあったほうがいいと思う」
「由紀……」
「こういうことって資格がどうこうっていうものじゃないわ。少しでも鈴原のこと、いいなーと思ってるんなら、つきあってみればいいじゃない。それで、やっぱりだめだと思ったら、別れればいい。……ね、沙樹」
「そんなこと……いいのかな」
 許されるのかな、と呟く沙樹の背中を後押ししたのは紛れもなく好意からだった。


「……あの」
 校門前で会って、沙樹は鈴原に話しかけようとしてためらった。つきあった方がいい、と言われたことは言われたけど、まだ踏ん切りがつかない。自分が、鈴原くんと……? そう思うだけで、他の人に申し訳ないような気がした。
「おはよ」
「!」
 先に声をかけられ、沙樹は目を見開いた。あわてて俯いて鞄をぎゅっと握りしめる。
「お……おはよ」
「早川さん」
 沙樹が顔を上げると、鈴原は少し困ったような顔をして沙樹を見ていた。
「返事は急がないから。……ゆっくり考えてみてください」
「……はい」
 つきあう、つきあわない。つきあったら、どうなるのだろう。何かが変わるのだろうか。今まで見えなかったものが見えるようになるのだろうか。知らなかったものを知るのだろうか。
 今一番ほしいものなど、興味を失ってしまうのだろうか。
 それが、いいこととは沙樹には思えなかった。けれど、そればかりを見つめている沙樹の精神状態がいいものではないことも、同時によく分かってもいた。
「つきあう……」
 鈴原は優しそうだ。きっと沙樹だけを見てくれるだろう。
 では、沙樹は?
 沙樹は鈴原だけを見るのだろうか。
「沙樹、おはようっ。教室、行こ」
 由紀が沙樹の肩を軽く叩いた。
「由紀、おはよ」
「元気ないなー。さ、今日も頑張るぞっ」
 沙樹の手をつかんで、ぐいぐい校舎の方へ引っ張っていく。引きずられるように歩きながら、沙樹は元気いっぱいな由紀の様子に微笑んでいた。


「鈴原……くん」
「え、あ、はい」
 1時限が始まる前に、沙樹は鈴原の席に行った。
「昨日の話なんですけど」
「え?」
 鈴原は焦った。こんな、教室で、クラスメートも山程いる中で、返事をする気なのか、とあわてた。
「早川さん、その話はまた」
 後で、と言おうとした鈴原を押しとどめるように、沙樹は人差し指を自分のくちびるに押し当てた。
「……おつきあいさせていただきたいと思って」
 ざわめいていた教室が静まりかえった。
「……鈴原……くん?」
 静まりかえった教室が一挙にどよめいた。
「しっ……んじらんねー!」
 はやし立てるクラスメートを押しのけ、鈴原は教室を飛び出そうとし、そばにいた沙樹の手首をつかんだ。
「!」
「とにかく、来て」
「でも、これから授業が始まる……」
「いいから!」
 廊下を走って、階段を駆け上がる。沙樹は鈴原に連れられて、最上階まで昇り詰め、屋上に出た。
 沙樹は息を切らせて膝に手を置き、肩で息をしていた。
「……どうしてあんなところで返事するんだよ……」
 俺ら、さらしもんだぜ? と鈴原は困ったように呟いた。沙樹は顔を上げ、不安げな目をした。
「おつきあい……しない方がよかったの?」
「そうじゃなくて!」
 ああもう! と鈴原は頭をかきむしり、呆然としている沙樹に気づいて、あわててぐしゃぐしゃにしてしまった髪をなでつけた。
「もちろん、うれしかった」
「鈴原……くん」
「でも、状況を考えてほしかったんだけどなー……」
「状況」
「そうだよ。あーもう、当分からかわれるぜ? やんなっちまう。確かに俺は君のこと……好き……だけど、でも、その、みんなにそれを言いふらすつもりはなかったのに」
「私だってないわ」
「なら、どうして!」
 沙樹は瞬き、ようやく分かったような顔になった。
「みんなに知られてしまったのね」
 鈴原は肩を落とした。
「しょうがないか、こうなった以上は」
 鈴原は息をつき、沙樹に向かい合った。
「ありがと。じゃ、これからよろしく」
「……はい」
 沙樹の笑顔は鈴原の視線も手足の自由すらも奪い取った。
「こちらこそ」
「……あ、ああ」
 それだけ呟くのがやっとだった。


 1時限に遅刻して、ふたりして教諭に怒られたものの、ふたりはあんまり気にならなかった。休み時間になって、クラスメイトたちは散々ふたりをネタにしたが、一日経ち、二日経ちして、1週間も過ぎる頃には、もう誰もからかおうという奴はいなくなっていた。鈴原の部活が終わるまで、沙樹はいつも図書館で待っていた。鈴原がつきあい始めたというのはすぐに知れ渡ったが、沙樹が図書館で待っているのを快く思わない女子もいた。つきあっているなら、体育館で鈴原が練習しているのを見ていたいと思うのが普通じゃないのかと。だが、そうしていればいたで、周囲に取り巻く女子生徒の反感はより一層煽られただろうし、どちらにしろ、沙樹の立場は厳しいものだった。
「いいよ。図書館で待っててくれよ。ていうかさ……見られてると、緊張して手元が狂いかねないし」
 本当かどうか分からないが、そう言って鈴原は沙樹の肩にそっと触れた。そのまま、そっと頬にくちびるを寄せる。沙樹はあわてて鈴原から身体を離した。
「……あ、……ごめんなさ……」
「いや、俺の方こそ」
 避けられたのはショックだったが、図書館でそういうことをしようとしたので逃げられたのは当然なのかもしれない、とも思った。